これはただのフィクションです。
恥の多い生涯を送ってきました。
いきなりこんな冒頭を突きつけられたら誰しもが目を引くだろう。
こんな文章書けるだけで全然『人間失格』ではないものだし先人であり偉人の素晴らしい人とは思うけど本当にクズだとも思える。
そこが心底尊敬している所だけど。
いや尊敬はしてないか尊敬してても飯が食えるわけではないし、別にほかの著書を読んでいる訳では無い。ただクズの先輩として似ているから好感が持てるだけという話だ。
むしろ人間失格なのはこの俺。
何をやっても中途半端でいつも適当に過ごしていたから俺には何も無い。
何も無いと言っているのは昔からか、つい口癖のようになってしまってるのも仕方ないことと許して欲しいものである。本当に何も無いのだから。
それこそ特技や個性なんてものもなく顔がいい訳でも誰かに役に立つ訳でもない。
友達もいないし家族からも疎まれている存在だ、もちろんお金持ちでもないしの何も無い人間なんだ。
『人にはそれぞれいい所は1つはあるよ』とか中学時代の学級委員長は言っていたけど何も無い人間にはその言葉を受け入れるだけの頭もないから本当に救えねぇ。
ああ死にたいなあ。
今まで自分が人との関わりを持たずに生きてきたせいもあって誰からも相手にされなくなってきたのもこの頃からか。
まあ俺なんて人と関わろうとする人間なんていないのが普通だと俺が一番よくわかっている。
自分は今までどのように生きてきたのか忘れてしまった。
無駄に校舎へ行くだけの高校3年間を経て自分の進路をどうするか調査票を書く時も3度白紙で書いたら先生からも見放された。
人に相手されない時が本当に人として死んでることになることに気づけたよ。
やりたいことなどなにもなかった。
生きている意味など何も見えなかった。
もう生きていても意味ないと思ったのはいつ頃からだろうか。
気軽に話せる友達もいないのは作ろうとしないから当たり前か。実際に昔は俺に近づいてきてくれる人もいたのだが俺はそんなやつに対しても素っ気ない態度ばかりとっていた。プライドというものがあるなら消し去りたいけどもう遅い。何も無いはずの俺がなんで変にプライドだけ残しているのか。
リアルな友達もいなければインターネット上でもいるわけではない。
Twitterというものも初めて見たものの有名な人をフォローしていたらいつの間にか831人もフォローしてるのにフォロワーは49人。
フォロワーのほとんどが売れないアイドルのフォローバックかBot系のアカウントである。
実際の交流してる人なんかいない。
せいぜい愚痴や「死にたい」なんてことしか言わないか、お金を配っている富裕層をフォローしてRTしてるだけの俺だからかそんなやつと絡んでくれる人なんてそうそういない。
また今日も『100万円を100名にプレゼント』
の企画を呟いているどこぞやの社長の投稿。
フォローボタンとRTボタンの2つを押せば完了する作業を終わらせる。
【100万あったら何に使うか。】
なんて想像よりも当たるわけないという愚痴をつぶやき携帯を閉じる。
バカバカしい。自分で自分に問掛ける。
別に特に病んでる訳でもないと思う。
ただ本当に死にたいだけだ。
だからといって死にたい人間は誰だって悲愴感たっぷりという訳では無い。
俺は昔からこのまま、ただ自分には何も無くやりたいことも無いまま産まれてきて死んでいくのだ。
ただ死にたいなんて思ったのは生まれてからすぐなんじゃないかと思うくらい自分の中では日常の光景でありすぎる。
だから俺は今日も
『死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい』
と自分に問いかける。
でも死なない。死なないのでは無く死ねないのだ。
ここが本当にダサいところだ。やはりどこかで死にたいなんて思っていても行動すらできないダサい人間なのだとつくづく思う。
先輩は実際に行動してたじゃないか。
死なないのでは無く死ねないのだ。
こんなにも生きてる理由が見当たらないのに。
今日こそ死のうと
【オススメ 死に方】
でGoogle検索してみると。
あれよあれよ沢山出てくるではないか。
こんなにもに死にたい人間がこの世の中には沢山いてそれでも死ねない奴らが多いのだなと思うと少しにやけた。
『Google検索は役に立つ記事をトップ表示するというけど人が死ぬことに対しての役に立つ記事というのなら死なないで生きる方法をまとめるのではないのか。』
なんて戯言は聞きたくない。
死にたいという需要がある事に対してに死んだことの無い人が書いた記事なんて参考になるのか分からないけど実際に見てみると少しは役に立ちそうだ。
そんな中でも今まで死ぬことの出来なかった自分ができることといえば飛び降りることか首を吊ることくらいか。入水自殺をしても死ねなかったのだし俺には無理だろう。
なんとなくだが死に方は首吊りにした。
いよいよ死にたいと言ってた男が本気で死ぬために街のホームセンターに行き太めのロープを買ってきた。
Googleで調べた際には首吊り自殺の時に必要なロープの太さは16mm以上であればおすすめと言うので探してみるとすぐに見つかった。
ロープなんて普段探さないけどこんなにも種類があるのかと思うと興奮する。
太いのから細いのや白いものからカラフルなものまで。
まあ無難に白いロープでいいだろ。
家にロープを付けられるところもないし見つかると大家さんに迷惑かけるからどこかの森にでも行って死のう。
今になって人の迷惑を考えるようでは遅いのだが。
ハングマンズノットという結び方が一般的な首吊り自殺用の結び方らしい。
しっかりと結び方を覚えとおかないと途中で解けて苦しむだけはゴメンだ。
死ぬのにもこんなに準備がいるというのは本当にめんどくさい。
これも人を簡単に死なせないようにしているからなのか。
しかし何もしないでいては今までと変わらない。
変わるも何も死んだらおしまいなのだがその時の俺は死ぬことが=生まれ変われるとでも認識していたのだろう。
生まれ変わったら何になろうか。
そんなことを思い耽りながら自殺の段取りをくんでいく。
幸い身辺整理はするほど何も持っていないので決行するとなれば明日にでも決行できる。
さて自殺の定番といえば富士の樹海だ。
よし決めた!
明日ロープと足場を持って富士の樹海で自殺しよう。そうしようと。
決めたあとは足取りが軽かった。
明日死ねる。ようやく死ねる。
死ぬと決めた今晩はいつもよりやけに眠りにつくのが早かった。
朝起きてロープと適当な足場と軍手を大きめのリュックサックにいれて駅へ向かう。
今まで住んできた街に何も未練もなく1度も後ろを振り返らずに前向きに死にに行く。
最寄りの駅から河口湖駅までは大体1時間半もすれば着くだろう。
電車に揺られながら自分の一生を振り返ってみても何も無いことにまた1人でにやけてきて変な人に思われていただろう。
河口湖からバスに乗り青木ケ原樹海までいけばすぐだ。
そこは実際に訪れてみると不思議な空気感が漂っている。
観光地でもあるので整備された道があるが道を少し外れたら負のオーラが肌で感じることが出来た。
人に見つかると面倒くさそうなので人が周りにいなくなるのを確認して樹海の中へ歩いていく。生い茂った草木が邪魔だがその中でも太そうな木を探した。
どれほど歩いただろうか、人の気配も完全になくなり風がふいて木がざわめく音だけが聞こえる。鳥の鳴き声も聞こえていない生物として生命を感じないスポットまで来た。
昼間だと言うのに太陽を遮り暗く重たい雰囲気の中ロープを結ぶのにちょうどいい太さの木を見つけた。
この木なら大丈夫だろう。
リュックサックから足場とロープを取り出し足場を使いハングマンズノット雰囲気結びをする。家で何回も練習したせいかすんなりと輪っかの部分が出来上がった。
しっかりと括りつけてあるのを確認して1度足場を降りる。ふとその場に座り込み物思いにふけってみる。
『本当に死ぬのか。』
今日初めて声を発した気がする。
あれこれ考えてても何も浮かんでこないのはやっぱり俺には何も無いことが分かった証拠であった。
そっと立ち上がり足場に乗りロープに首をかけてみた。
あとはこの足場を蹴りあげるだけだ、
蹴りあげるだけで死ねる
ずっと死にたかったんだろ
早く蹴りあげろ
蹴るぞ
蹴る
蹴
蹴れなかった。
どうしてもしっかりと足場から足が離れない。
足がプルプル震えている。ここまで来て勇気が出ないのか!
あんなにも死にたがっているのにここまで『生』にこだわっているのはもうコリゴリなはずなのに。
もう1回足場を蹴りあげるつもりで思いっきりジャンプをしようとした瞬間!
ピロッ!
ズボンのポケットから着信の音が鳴った。
せっかくのタイミングに自分自身ビックリして危うく足場を蹴りあげようとしてしまった。
ポケットからふと携帯を見てみると。
Twitterから通知がきている。
ふと開けて見てみると.......
前澤社長からDMが送られてきた。
もう少し生きてみてもいいかもしれない。